21年前は日本の転換点であったのではないだろうか – 地下鉄サリン事件の日に思い出す1995年

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今日はサリン事件があった日だ。僕の人生において1995年はかなり印象の強い年だ。

1995年の1月から外資系に転職し、神谷町のビルにあるオフィスに通うようになっていた。

だから、あのサリン事件はよく憶えている。

被害者の方々へのお悔やみと、今も後遺症に苦しむ方々にお見舞い申し上げます。

あの頃といえば、めざましテレビの八木さんの可愛いおトボケぶりが大好きで毎朝見ていた。その後に続くポンキッキーズを見て、コニーちゃんとジャカジャカジャンケンをしてから慌てて家を出るのだ。

当時のポンキッキーズは、アムロとランランがシスターラビッツというユニットを組んでいて、ウサギの着ぐるみで踊ってた時代だ。あの頃のアムロは掛け値無しに可愛かった。顔が小さかったな。



色々なことが起こった1995年

地震

1995年といえば1月17日の早朝に発生した阪神淡路大震災だ。成人の日が日曜と重なって翌16日月曜日が振替休日となった3連休明けの火曜日だったと思う。この震災もかなり色々と思い出があるのだが、またそれは来年の1月17日に憶えていたら書くことにしよう。

携帯電話

この前年あたりから携帯電話が個人にかなり普及した。僕も個人用の携帯電話を初めて手に入れたのがこの年だった。TU-KAという携帯電話会社が無料で電話機をくれた。その後この会社はAUに吸収される。ちなみに、現在もAUなので通算20年超の長期契約者だ。

あの頃の携帯電話はかなり危険で、電話をかけた場所から160km以上離れた地域にいると、別の番号でかけ直さないとつながらない仕様だったと思う。大阪出張しているはずなのに、会社で契約してた mova に近距離番号の方で着電しちゃって、どう言い訳しようかとパニくった記憶がうっすらとある。

第一子

第一子を授かったのもこの年だ。結婚二年目の事だった。とても嬉しかったな。

インターネット

インターネットが普及し始めたのもこの頃だ。Win3.1 にネスケをインストールしてモデムでネットに繋いでたんじゃないかな。当時の僕はニフティーサーブに入り浸っていた。たしかこの年か翌年ぐらいにMN128という端末が登場し、Wind95+IE3+INSテレホーダイで個人宅へネットが普及したんじゃなかっただろうか。あの頃は Google とかまだなくて、AltaVista とかいう検索エンジンが早いっていって使ってたおぼえがある。

サリン事件

色々なことがあった1995年だったけれど、このサリン事件から始まり上九一色村の強制捜査と教祖の逮捕までの一連の流れは、映画やドラマを超える展開で本当にすごかった。(被害に合われた方には大変失礼な物言いで申し訳ございません。)幹部がマスコミの面前で刺殺されたのもこの年だ。

無関係の一般市民が大勢巻き込まれたテロ行為は、連続企業爆破事件以来のことではなかったであろうか。

「日本は安全だ」と手放しで言えなくなったなと寒々とした気にさせられた事件だ。

21年前の今日、僕は神谷町のオフィスにいた。普段ならちょうど9時頃にオフィスに着くように電車に乗っている。

しかし、毎週月曜日の朝だけはパワーブレックファストというサンドイッチを食べながら行う早朝ミーティングがあるのだ。そのせいで、この日は大好きなめざましテレビも見れず、朝の7時半頃にオフィスに着くように家を出た。

これが幸いした。

ミーティングも終わりに差し掛かった頃、何故だかいつもと違う雰囲気を察知してオフィスの窓から神谷町の交差点を見下ろした。

パトカーやら消防車やら救急車が何台も集まってきて止まっている。眼下に、大勢の人が右往左往しているのが小さく見える。

まさしくこの時サリンをまかれた日比谷線が神谷町に到着し、大勢の方々の生命が奪われていたのだ。

なにか大変なことが起こったのはわかったが、それが毒ガスによるテロの可能性が高いと知ったのはかなり遅い時間になってからだったと思う。この辺の記憶は定かではない。

当時はインターネットもまだ始まったばかりの頃で、速報性の有る情報入手手段は休憩室のテレビのみであったから、正しい情報がわかったのはかなり後のことだったと思う。

あの事件がもし月曜日ではなく火曜日に起きていたら、おそらく僕は被害にあっていただろう。狙われた電車は毎朝僕が乗る電車だった。

いや、オフィスに通っている殆どのスタッフが毎朝その電車を利用していたので、あの朝のミーティングが全員の生命を救ってくれたのだ。

この時だけは、あの頑固でスノビッシュなユダヤ人のボスに感謝した。

1995年は日本の転換点であったのではないだろうか

こうやって振り返ると、1995年はとにかくすごい年だった。あの1995年の経験が、日本が戦後培ってきた価値観や道徳観や家族観を自壊させるキッカケになったのだろうと感じている。

朝、このことを考えながら歩いていて、色々と記憶の整理をしていてふと気づいた。今、僕がこうあって欲しいと思う日本という国は、1994年までの日本なんだ、と。

あの年までの日本は、とても息がしやすかった、と。

ただのノスタルジアなんだろうね。

いずれにしろ、僕個人の身の上にはあの日からの21年間にも色々なことがあった。振り返れば、自分なりにかなり充実していたと思う。今なら堂々とこう言おうと思う。

「我が生涯に一片の悔い無し!」

死ぬ前にも同じことが言えるよう、次の20年もダラダラと恥を晒しながら生きていこうと決意を新たにした朝だった。

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